「なんだこのわけのわかんねぇ記号…」
ノートを見下ろして、葉は首を傾げた。

017.√

確かに自分の書いた文字だ。しかしその意味と名前が一向に思い出せない。
まるで手品に引っかかったような…いや、むしろその手品に使われる鳩のように目を丸くして、葉はうーんと唸った。
自分が書いたんだから、授業で習ってるはずだ。なのに全く記憶にないとはこれいかに。
「なぁアンナ、これなんだ?」
向かいに座っているアンナに、声をかける。
同じく数学のノートを広げていたアンナは、チラリと一瞥して
「ルート」
と抑揚なく言った。
「ルート…どういう意味だ」
「平方根」
「は?」
「ルート4イコールプラスマイナス2。ルート9イコールプラスマイナス3。そう言えばあんたは理解できる?」
「…無理です」
この記号ひとつよりアンナの発した言葉の方が何倍にも不可解だ。説明を求めた方が間違いでしたと謝罪を述べて涙を流す。恨みなど持ちはしない。例えアンナがわざと意地悪な言い方をしているのだと知っていても、説明する気などさらさら無かったのだと知っていても、決して恨みごとは言わない。――あとが恐い。
まん太にでも聞いてみようと葉はため息をついてノートを閉じた。
「…それ、いいのよ。中3の内容を先生が余談で言ってただけ。あんたは眠りながら黒板に書かれた文字を意味もなく書いてたのでしょうけど」
アンナはリンゴ模様のシャーペンを置いて、葉にかすかにほほえみかけた。
「意地悪だと思ったでしょ?」
「…」
その通り、と答えるのも勇気がいって、曖昧にうーだともあーだとも取れない声を出した。
「授業中寝てるからそんな羽目になるのよ」
アンナはサラリと言い放って、またシャーペンを手に取った。
教科書の問題をさらさらと解いていく、アンナのペンの音だけが居間に響いた。広告の裏を計算用紙にしているのは、彼女なりの節約なのだろう。
カチカチ、と芯を出す様子を眺めながら、葉の頭はとっくに数学から離れていた。
何で向かい合って勉強しているのか、不意に疑問になった。
いや、勉強しているのは当然テスト前だからで、そこは納得している。しかし1学期の中間期末とひとりで勉強…いや、ひとりで放ったままにいつの間にか過ぎていたテストの時と違って、こうして一緒に勉強する相手が何故か向かいに座っている。それがどうしても不思議になったのだ。
別に、彼女がいることに不満であるわけではない。彼女がいなければテスト勉強などという自分から縁遠いものに関わることもなかったのだが、どのみち自分にはあまり関係ない。
なぜ、彼女が向かいにいるのか。
なぜ、一緒の机に。なぜ、同じ教科書を開いて。
なぜ、なぜ、と疑問に思う対象は、全てこの空間にあるのだと気付いた時に、不意に同棲の意味を感じ取って、葉の背中はゾクリと震えた。
机の上の物を全てバラバラにしてしまいたい衝動にかられた。めちゃめちゃにしてしまえば、何かが変わる気がした。けれどそれもアンナに殴られてしまい終わりだろうと思う。
今更に動揺する自分がよく分からなかったが、葉は確かにうろたえていた。
「勉強は…――」
アンナが不意に声を上げたので、葉はびくりと身体を強ばらせた。
「誰かがいてはかどる人間と、はかどらない人間がいるみたいだけど…」
アンナはそう言って顔を上げた。
「あんたは後者みたいね?」
「…」
恐らく、自分が勉強のことなど全く考えていなかったことはお見通しなのだろう。葉は僅かに眉をひそめて、文句を込めて言った。
「はかどらねぇよ」
「開き直り」
「お前がいたんじゃ、はかどるわけねぇよ…」
「…」
アンナは少し驚いたように、顔を少し上げ、葉をしげしげと眺めた。
「フーン…」
リンゴ模様のシャーペンを置いて、アンナは身を乗り出し葉に近寄った。いたずらっぽく微笑んで、葉の瞳を見つめて言う。
「ねぇ、キスする?」
「…」
葉は目を丸くして、アンナを見つめた。謎の記号以上に、アンナが分からない。
唐突な言葉に少なからず動揺しているくせに、葉は虚勢を張って
「お前がしたいんなら」
と口の中で呟く。
「バカね、したいならしたいって言いなさいよ」
「…してぇ」
少しばかり間があいてはいたが、葉のその言葉に満足したらしく、アンナはかすかに笑って葉の唇に自分のそれを静かに重ねた。
受け身ではまずいと思い、葉も身を乗り出してアンナの唇を求めると、やけに接点は熱くて胸が震える。唇を少し動かすと、アンナがそれに応えて口を薄く開き、葉の舌を受け入れた。絡み合う熱を互いに行き来させながら、葉は頭の隅でなぜこんなキモチイイことをしてるのか、自分がまた不思議になった。
湿り気を帯びた唇同士を惜しげに離すと、互いにまたひとりになって、熱はゆっくりとどこかに消えていった。
「あつい…」
「ああ、熱いな…」
アンナの気まぐれもよく分からないが、自分のこののめり込みようも不可解だ。葉は唇の熱が全身に廻っていくのを確かに感じながら、Tシャツの襟をつかんでパタパタとあおいだ。
「暑い」
触れあった瞬間に発した熱は、どうやらこの空間を支配したようだ。
「ルート、ね」
「ん?」
繋がった瞬間、確かにあたしたちは別の何かに形を変えていた。離れれば元の形なのにとアンナが言えば、なるほどそうだったのかもしれないと葉は心の中で肯いた。ふたりをかけあわせて自分とアンナというもの以外の存在になった気もする。
それがどうルートなのか、葉にはさっぱり分からなかったけれど。
謎の記号は謎のまま。
謎の存在と顔を向かい合わせ、葉は首を傾げた。


2004.9.12





懺悔


…あたしにもどう√なのか分からないんですけど…(笑)
恐らくその別の存在の平方根が葉とアンナということで。

攻め嫁に動揺する葉さんでした。