昔から、木乃が嫌いだった。
097.アスファルト
人の心など、覗けばみな醜かった。
あたしは誰もが嫌いだったし、そんな醜悪なもの見せられたって、今更と諦めていた。
だれもが醜かった。
あたしをかわいそうだと言いながら、心で笑っている者ばかりだった。
それで良かった。
あたしはみんなが嫌いだから、それで良かったのに。
「アンナ」
部屋の前で、木乃が立ち止まりふすまを開けた。
「とっとと夕飯をお食べ。食器が片づかなくて面倒なんだよ」
歯に衣着せぬ物言いで、冷たく言い放つこの老女も、嘘だらけなのをあたしは知っていた。
望んでもいない能力によって、あたしはそれを知っていた。
その能力のせいで、こんなにも人が嫌いなのに。
この能力のせいで、人類を憎みきる最後の一線を踏み越せない。
流れ込む木乃の感情。
飯を食わずにいるアンナの身体は大丈夫だろうか。2日前に鬼と遭遇してから、巫力が回復しきっていない。大丈夫か、大丈夫か、大丈夫か、アンナ…――
「うるさいっ」
あたしは流れ込む声をかき消すように大声で叫んだ。木乃にくってかかって流れ込む声を乱れさせる。
「うるさい、出ていけ! あたしなどかまうな!」
「…」
流れ込む木乃の感情は形を変えた。表情とそれとが一致する。――何とかしてやりたい、この娘を。
「うるさい…ッ」
耳をふさいで、痛くなるほどに両手できつくふさいで、なのにそれでも声は消えない。
嫌いだ。お前など。
あたしを人間だと思い知らせる、暖かな心に触れていたい弱い人間だと思い知らせる、お前はいったい何なのだ。
「出て行け…ッ」
絞り出すように、ようやっと言えた言葉で、木乃は姿を消した。
なのに。
少し開いて残された、ふすまの隙の光が、あたしを招いているようにオレンジ色に輝いていた。
あの隙間を、もう少し自分の手で開いたら、あたしはもっと暖かい感情に触れられるのではないだろうか。輝く世界に、自分も踏み込めるのだろうか。
選択肢を残した木乃に、腹が立った。
あの女はあたしを試している。
温かい心と一緒に、あれは冷酷さも持ち合わせていた。
「…何だい、食いに来たのか」
居間の襖を開けると、木乃が顔も上げずに言った。盲いた目に、あたしの姿は映らない。
だのに赤いテレビジョンからは、あたしの知る歌番組が流れ、見たこともない歌手が歌を歌っていた。
「そろそろ片づけようかと思っていた頃だ」
嘘。
あたしを待つつもりだった。
心の声が、あたしを歓迎する。
言葉とそれが違えば、あたしは腹を立てたはずではなかったか。絶望の縁に立たされ、人を憎んだはずではなかったか。
なのに木乃の嘘は、あたしを暖める。あたしを人と思い知らせる。
――捕らえて、放してくれない。
嫌いだ、木乃なんて。
どうしようもなく、嫌い。
「――アンナ」
呼ばれて目を覚ますと、葉が顔であたしをのぞき込んでいた。
「…」
夢と現実のさかい目が分からず、しばらくぼんやりと見つめ返していたけれど、ふいにあたしの心は現実に戻った。
「…どうしたの」
言いながら、あたしは自分が浴衣も何も着ていないことに気付いて、寒さに震える。
すぐさま気付いた葉が、同じように裸の身体から腕を伸ばして、あたしを引き寄せた。
「なぁアンナ、雪だ」
「雪…?」
楽しそうな声につられて窓の外を眺めると、白いものがちらりちらりと降っていた。
「ほんとね…」
「道理で寒いはずだよな」
こんな時にふたりして裸で眠っているなんて、はたから見れば馬鹿丸出しのようだと思ったけど、寒い日にこうやって寄り添っているのもなんだか良かった。
雪はちらちらと落ちてゆく。
そのゆるやかな動きを見ていると、恐山を思い出し、同時にさっきまで身を置いていた木乃の夢を思い出した。
「うわっ」
突然立ち上がったあたしに、葉が驚いて声を上げた。
「おい待てよ、布団持ってくなよ、オイラが寒いだろっ」
「服、着ときなさいよ」
昨日脱ぎ散らかした浴衣を指さして、あたしは窓に寄った。
「ちょっ。何だってんだよ」
ぶつぶつ文句を言いながら、葉は仕方なくあたしのうしろで浴衣を着ていた。
あたしは布団にくるまりながら窓の外を眺めて、雪が落ちてくるのを眺めていた。まだ降り始めたばかりの雪は、少しの仲間を連れだって心細げに降り落ちる。
炎の囲いの外では、道路に落ちた雪が次々に消えていった。
「積もらんだろな、この雪は」
いつの間にか浴衣を着た葉があたしの横に立っていた。
「そうね…」
あたしは答えながら、葉に少し頭を傾けた。
この寒さで、あたしは昔の夢を見たのだろうか? 木乃のもとで暮らした頃を。
ふたりで暮らした消えない思い出は、どこかであたしを暖かく縛り付けている。
こうして横で雪を眺める男は、熱くあたしを抱き寄せた。
アスファルトの熱で、雪は落ちては消えていく。
あたしの心をああやって溶かしたのは、こうやって横に寄り添う男かも知れないし、もしかするとその祖母かも知れないと、思うとふいに目頭が熱くなった。
2004.12.2
懺悔
わかりにくいかも知れませんが…。
嫌いは裏返し、アンナは木乃に感謝をしていると思います。
もちろん葉に救われた部分は大きいだろうけど、木乃に救われた部分も有るんじゃないかな、と。
この時期になるとどうしてもアンナと木乃の話が書きたくなる、一種の病気です。