ひとつ、悲劇というのは突然やってくる。
 ふたつ、慣れないことはするものではない。
 葉はつくづくそう思う。

 2.青風遁走曲

 いつも通りに生活し、修行をこなしていただけなのに、そこに複数存在する非日常が悲劇をもたらした。
 「あれ、アンナちょっと…」
「なに」
「太った…か?」
 まず始めの非日常。今までこれを口にした経験がないのは、アンナがふっくらと呼ぶにはほど遠い体型をしていることと、葉自身の鈍さによる。
 「殴って欲しいわけ?」
 怒気を含んだその言葉に、それが女子への禁句のひとつなんだと初めて気づいて葉は慌てた。
 「い、いや、そうでは…!」
 弁解を試みたが既に手遅れで、ある意味グーで殴るよりも強烈なビンタにより彼は見事に吹っ飛んだ。ドスドスという荒い足音を遠のく意識の中で聞きながら、禁断の言葉をリストにひとつ書き加えていた。
 おそらく「太った」という言葉が悪かったのだろう。というのも、葉は決して悪い印象をもってその言葉を発したわけではなかったからだ。
 抱きしめれば折れそうな(そもそも抱きしめるという機会自体まれではあるが)アンナの身体は、ときどき不安を誘う。倒れるんじゃないだろうかという同居人としての心配。…もしかして手折れるんじゃないだろうかという、男としての葛藤。
 できれば出会いたくない感情だから、葉は少し身の付いたように思えたアンナの身体を喜んだのである。
 そんな指摘をすることもまれなのだが、更には選んだ言葉が太った、では確かに良くない気がする。慣れないことをするからこうなったわけだ。
 葉は腫れた頬をさすり、のろのろと起きあがった。
 誤解を解きに行ってもきっと怒られるだろう。
 葉は諦め、息を吐いた。
 もうすぐ午後の修行が始まる。こってり絞られることにしようと決め、その前に今食べたばかりの昼食を片づけにかかった。

 非日常というのは非日常を呼ぶ。
 いつも通りの修行スタイルで庭に出てから、指導者であるアンナが自転車を用意しているのを見て、葉はたまげた。
 「ど、どうしたんよアンナ、それ…」
「あんたのマラソン10キロ、あたしもこれで走るのよ」
 アンナはさも当然とばかりに言うが、今までそんなことはしたことがない。思い当たるのはひとつだけ。
 「アンナ…さっきの気にしとるんか」
 ギロリと一睨みされ、葉は黙った。しかし図星であるのは明白で、心の中で小さく可愛いと呟く。意地っ張り。そんなことは言えた試しがないけど。
 体重を気にした女子がだいえっとというやつに興味を持つことは、葉もなんとなく知っている。母の茎子がたびたびそれを口にしては、翌日にはケーキを頬ばっていたりするのだから、葉はよく首を傾げたものだ。しかしそれを指摘しては女が恐いことも知っていた。
 葉は怒りを逸らそうと、次に気になったことを口にしてみた。
 「お前、自転車だっていっても10キロももつんか?」
「無理なら引き返すわよ」
 それは(恐らく)ダイエットが失敗するひとつの典型的な例だろうと思いながら、葉はそれ以上何も言わなかった。それは横に並んで一緒に走るというのも悪くないと思ったからというわけではなく(むしろ横に並ばれるのはうるさい)…いや、思わないわけでも無かったのだが、しかしそれ以上にアンナに何を言っても無駄だろうと分かるからだ。
 「そんで…今日はいつものコースでいいんか?」
「そうね…どうせなら河原の方に行きたいし…。まぁ指示は走りながら出すわ」
「うぃー」
 適当な返事を返しながら、葉はアンナに出されるだろうコースの予想を、ふんばりヶ丘の地図を思い出しながらたててみる。
 河原まで行こうと思うと結構な距離だ。いきなり走るアンナが大丈夫なのかどうかはなはだ疑問だった。初心者は自分の力を過信しやすいしなぁと葉は一端のプロぶって考える。
 しかし結果を言えば、慢心したのは葉の方だった。
 いや、それを慢心と呼ぶには少し哀れかも知れない。
 ただ少し、好きな女の子の前で修行の成果が見せたいとばかりに、少し、ほんの少しだけ、男の意地が働いたばかりに、無駄に力が入って盛大に足をくじき転んだだけなのだから。
 「――まったく、情けない男ね」
 しかし許嫁の声は無情な響きを持って葉の頭上に降ってきた。
 「し、しかたねぇだろ、くじいたもんは…いててっ」
「修行がまだまだ足りないようね…増やさなきゃ」
「んな…っ」
 蒼白になる葉に、アンナは冷ややかな視線を送った。
 「あんたがそこまでなまってるとは思わなかったわよ」
「あ、あのなぁ、オイラだって何も好きこのんでこけちまったわけじゃねぇし、不慮の事故ってヤツで…」
「だからまずいんでしょうが。あたしだってあんたが好きこのんでこけるようなヘンタイだと思いたくないわよ」
「へんた…っ!」
 葉はその言葉に唖然とする。よくもまぁそこまで人を傷つける言葉が浮かぶもんだ。半ば感心しつつ、傍らで密かに涙を流す。それともこれは「太った」という暴言への仕返しなのだろうか。あり得る話だ。
 しかし何にせよ、葉自身修行が足りないと痛感せざるを得なかった。少しいいところを見せようなんて必要以上にスピードをあげてみせて粋がるから、こんな風に足をくじく羽目になった。アンナにどう言われても仕方ないと思うほど、精神的な幼さを自分でも感じずにはいられない。
 「で、足はどうなのよ」
 一通りの暴言を吐いて満足したのか、アンナは葉の足を気遣う発言を(ようやく)した。
 「それが…」
 予想外にひどく、立とうとするだけで激痛が走るのだった。
 「立てそうもないんよ…」
「…」
 アンナはさも情けないと言いたそうな顔をしていながら何も言わないので、葉の方がいたたまれなくなる。
 「ちゅうかもう、帰れるんかどうか…」
 言っていて更に情けなくなるようなことしか言えないことがまた情けない。そして帰れるか分からないという事実に少し愕然とした。
 運悪く折り返し地点の河原で転んだということは、残りは5キロあるということを意味している。痛い足を抱え歩いて帰るには悲惨な距離だ。
 葉は試しに起きあがろうとするのだが、「いてぇッ」と声を上げてまたドシンと倒れてしまった。
 「殴り倒してやりたいわ、あんたのこと」
「…」
 アンナの怒りの声に、葉は肩を縮めて小さくなるしかない。頭の中ではどうやったら帰れるか、夕飯の支度なんて間に合わない(し、できない)のではないかといったことが浮かぶ。洗濯物だって取り入れなけりゃならんのに…――。
 アンナはそんな葉を見下ろし、ハァーとため息をついた。
 「葉」
「んあ?」
「乗りなさい、自転車」
「…」
 何を言われているのか理解できず、葉はしばらく自転車を見つめた。
 「無理…だぞ、自転車だってこげねぇよ」
「分かってるわよ。後ろに乗れって言ってんの」
「うえ!?」
 淡々としたアンナの言葉に、葉はますます驚いた。
 「後ろって…お前が自転車こぐって言うんか?」
「何よ、文句あるわけ?」
「文句っちゅうより問題が山積みだろ」
 女の力で二人乗りができるのかとも思うが、それ以上に男の自分がアンナにこいでもらうなんてみっともない、というのが本音だった。
 「いいよ、オイラ足引きずって帰…いてて!」
 立ち上がろうとした拍子にまた足に激痛が走る。
 「強がってないで乗りなさいよ」
 一方のアンナは何故かやたらとやる気になっているようで、自転車のストッパーをかけると葉の元へ寄った。
 「ほら、肩に掴まんなさい」
「…みっともねぇだろ…」
「こっちはもうとっくにみっともない姿を見せつけられてんのよ」
「…」
 言い返せもせず、そして頭ではそれ以外にいい方法もなさそうだと分かっているので、葉はおとなしくアンナの肩に捕まり、くじいた足をかばいながら何とか立ち上がった。
 自転車の後ろに乗るのは容易ではなかったが、アンナの手と近くの電信柱を支えにして何とかまたがり、あとはこぎ手のアンナのみという状態までたどり着いた。
 「ほんとに大丈夫か、アンナ…」
「仕方ないでしょ。他にいい方法ある?」
「…お願いします」
 ぐらぐらと揺れ、危なっかしい運転で、自転車はのろのろと走りだした。葉は気が気でなかったが、一度走り出すと自転車は思いのほか安定しだした。
 風が吹いて気持ちがいい。目の前にあるのはアンナの髪で、やたらといい匂いがした。
 慣れてしまえば、こんなにいいことはなかった。足は痛くないし、何より普段なら自然な形で近づくこともできやしないで意識しっぱなしなアンナと、こんなに距離が短い。
 ここまで来ると、突然の不幸は最高の幸福であったのではないかと思う。何事も結果良ければそれでよし、なわけだが、それで言うと今日の出来はかなり良かった。
 白い首筋や、細い肩。それがこんなに近くにある。そんなアンナの身体を見ていると、よくこの華奢な身体でよく5キロも自転車をこいだと思うし、またこれから更に5キロも足を動かし続けるなんてできるんだろうかと不安がよぎる。
 たおれそう、だ。
 不意にその言葉が浮かんで、葉は慌てて頭を振った。――バカなこと考えるな。
 「葉」
 自転車の前からアンナが声をかける。
 「うえっ何だ?」
 音が前に飛んだせいで少し小さくなった声を逃しそうになりながら、葉はそれを必死で掴んだ。
 「あんた、しっかり捕まってなさいよ」
 その足で落ちたら洒落にならないわよ、とアンナは笑う。それはどこか楽しそうで、葉は後ろからそんなアンナの様子を見て思わず微笑んだ。
 非日常は非日常を生む。
 滅多にない機会に、葉もアンナもいつもより少し、心が浮き立っていた。
 …しかしそれを壊すのもまた、非日常というやつなのかもしれない。
 心は浮き立ち、アンナの身体に(自転車から落ちないために)触れていると、どうにも落ち着いてはいられない気分になり、手がよからぬ意志を携え始めた。
 気づかれないだろうかと内心びくびくしながらも、アンナの肩のラインを確かめるよう添える手は、どちらかというと「捕まる」と言うよりは「撫でる」という言葉の方が適切になっている。柔らかい肌は肩も一緒で、それが自転車をこぐ動きにあわせて上下に揺れている。
 浮き立っている心があだになったとも言えた。結果を言えば、葉は自分の心――というよりもなにかもっと別の所からわき上がる思いに任せて、肩に添えていた手をそっと下ろしていき、腰に添え、そのまま腹部まで腕をまわしたのだった。言い添えれば、その指先は他の部分よりも一段と柔らかな胸に触れていた。
 「っ!?」
 そこまでされればアンナも気づかぬはずがない。肩に触れていた手が、少し熱を帯びていると感じたのは、後ろの彼を意識してしまう自分の思いこみかと思っていたが、その手が自分の身体を包み――しかも指先が胸に触れているとなれば、それは動揺と怒りの元であり、そしてそのどちらもが自転車の転倒を引き起こすには十分だった。
 「…っこのバカ!死ね!」
 倒れてカラカラと車輪のまわる音がする自転車を起こし上げ、アンナは怒りに顔を真っ赤にさせた。それは怒りだけではなかったのだが、葉にはそれに気付く余裕がなかった。ただ自分を見下ろすその鬼――まさに鬼――の姿を見上げ、蒼白になることしかできない。
 しかしアンナはそのままビンタもすることなく、最後にもう一睨みだけすると自転車をこいで無言でその場を去っていった。
 「あ、アンナ…!!」
 小さくなっていくシルエットに引き止めるように手を伸ばすが、止まってくれるはずもなく、葉はその場に置き去りにされた。
 「…どうしよう、オイラ帰れねぇ…!」
 問題はそこではなかったが、口をついて出るのはたいてい本意よりもどうでもいいものなのが相場だ。
 身から出たさび。帰れない理由はどちらかというと、心理的なものだ。
 まったく、なんでこらえ性がないんよオイラってやつは…。
 欲望と呼べるものに忠実に従ってしまった自分の理性の弱さがそら恐ろしかった。しかし指先に残る感触に、後悔がないのだから男というのはタチが悪い。
 何とかなるだろう。
 安易にそうまとめて、当座どうやって立ち上がろうかと葉は思案した。

 ひとつ、壁づたいに足を引きずり引きずり帰れた葉だったが、その日は翌朝まで締め出しを食らったことをここに蛇足として記しておく。
 非日常というのはまったく、結果的には葉に悲劇をもたらすものに尽きるようだった。




懺悔

嫁が愛しくてたまらん…のかは、非常に微妙な話に。(笑)

幼さのある恋心を出してみたくて書いたら、
最低な葉さんができあがってしまいました。
そんな彼も好きです。(笑)
身勝手さも愛しさのひとつのあらわれかと。