人魚姫
その日。なんだか切実そうな顔をしたアンナは、風呂から上がってきた葉に対してひとこと、聞いた。
「もし、あたしが人魚姫だったら?」
葉は目を丸くした。首に巻いていたタオルがずり落ちそうになるのをあわてて止める。いったい何を言い出すんだろう、アンナは?
――つーか、人魚?
「人魚…ってーと、上半身がサカナで下半身が人間の…」
「…それはどちらかというと半魚人ね」
どこが違うのか、葉にはいまひとつ分からない。それをさとって、アンナは葉を自分の前に正座で座らせると、人魚姫のはなしを聞かせようとした。
さっきから付けっぱなしのテレビが、葉の横目に見える。何かの映画がエンディングを迎えていて、歌が終わると最後に解説が付いていた。数枚のイラストと、映画のタイトルがうつる。――“リトル・マーメイド”?
「アンナ、これか、人魚姫って?」
髪の赤いオンナノコを指さして、葉が言った。たしかに、上半身が人間で、下半身がサカナのようだ。葉が最初に思い浮かべていた半魚人とは似ても似つかない。
「…そうよ」
横目でちらりとテレビを見ると、アンナが小声でぼそりと言った。
「おお、コレか、人魚姫」
葉はテレビの方に向いて正座しなおしたが、ぴしっと真正面を向いた時には、画面はもうCMへとうつっていた。
「ちょっ。消えちまった。…で、アンナが人魚姫だったら、だっけ?」
「そうよ…」
相変わらずの小声で、アンナがつぶやく。葉はためらわずにひとこと言った。
「きれいだと思う」
「…はぁ?」
「え?」
少しの間、空気が止まる。
「そういうコトを聞いてんじゃないわよ!」
「ええええ!? んなこと言われたって、そう思っちまったんだから仕方ねーだろがよ」
悪びれもせずに葉は言い、さらに続けた。
「だってよー、アンナの茶色い髪が波に浮かんで揺れとったり、アンナが海を自由に泳いでたりしたら…」
きれいだろ、と葉は言った。
「胸はちいせぇけど、そこはオイラが…」
パ―――――――――ン!!
アンナの平手が炸裂した。よけいなことを言われないうちにと思ったのかもしれない。
「あたしが聞きたいのは、そういうコトじゃなくてねぇ…」
今度こそ人魚姫のはなしを葉に聞かせることに成功すると、アンナはもう一度聞いてみた。
「もし、あたしが人魚姫だったら?」
神妙な顔をして、葉が言った。
「…つまり、お前が言いたかったんは、お前がその人魚姫とやらで、オイラがその王子様だったらどうするかって事なんだな?」
「まぁ、端的に言えばね」
声が少し怒っている。どうやら照れているらしいということが、葉には分かった。けど、何を照れてるんだ?
「よく分からんが…。オイラが王子様だったら…」
――きっと、ためらわずにキスするんじゃないか? と言ったら、アンナは怒るだろうか。さきほど口をすべらしてビンタを食らったばかりだから、つい慎重になる。
「えーと…」
言いたいことはあるが言ってはいけないと思うと、よけいにそこから考えが離せずに、葉はおろおろするばかりだった。
そんな様子を、アンナはじっと静かに見ている。――よけいに焦ってしまう。
アンナは、ふっと息を吐いた。
「いいわ。あたしが莫迦なことを聞いたのが悪かったの」
「え…」
「あたしにはちゃんと足が二本あるし、声も出るし。いじわるな魔女の邪魔もないのにね」
――それでも、なんだか。
あんただったら、魔女の罠なんかにかからずに、あたしを見つけ出してくれると思ったのよ…。
「アンナ?」
「あたしの、勝手な、思いこみにはしたくなかったのかも」
「??」
「あんたの口から、聞きたかったの」
そう言って、すっと立ち上がって去ろうとするアンナの腕を、葉がすかさず掴んだ。
「なに…っ」
引き寄せられるままに倒れてしまったアンナを、葉はしっかりと受け止めた。そしてためらいがちに、触れるだけのキスをする。
「あっあんた、何…っ」
体勢的にビンタを繰り出すことができずに、アンナは葉の腕の中で顔を赤らめてもがくことしかできない。
葉は力でこそアンナに負けずに、抱きしめたままでいることができているが、頬はアンナと同様赤く染まっている。
「これが、オイラの答え…なんよ…」
蚊の鳴くような声で葉が言う。
「は?」
「だっだからっ、もしオイラが王子様なら…という、ヤツだ…」
また、だんだんと声が小さくなる。
そんな葉を見て、アンナは思わず吹き出した。
「あんた、なんでそんなに照れてんのよ」
「なっ…だって、オイラどう考えても王子様とかじゃないだろがっ」
「そんなことを言ったら、あたしだって姫なんかじゃないわよ」
――女王でしょ、と言いたいのだ、アンナは。葉は照れた自分がばからしいような、よけいに恥ずかしいような気になって、頭を掻いた。アンナにゃ敵わん。
アンナはまだ笑っている。
「もういいだろがよー」
と、葉が情けない声を出す。
「あら、嬉しいのよ? あたし」
笑いを止めて、アンナは葉ににこりと微笑んだ。
「これであたし、泡にならなくてすむんだもの」
*
「泡にならずにすむ」
そう言った後、アンナはなんだか安心したように眠っている。――葉の部屋で。
アンナは、泡になるのが怖かったんか? 自分の思いが伝わらずに、すべてが儚く消えてしまうのが。
葉は分からないままに、ただ安心させようとアンナをかき抱いた。――泡になったって、放さない。一つ残らず集めて、手の中に入れて、ずっと…。泡みたいに浮かんで消えてかないように、抱きしめてやる。
葉は目を閉じた。このまま朝になれば、アンナはきっとけろっとした顔で「おはよう」とか言うんだ。抱きしめて、この腕からすり抜けていかない限り、ずっとその言葉を、その笑顔を、守ってやれる。
泡になったっていい、アンナ。ただ、ここから離れていかないでくれたら、それで。
アンナは目を開いた。「…苦しいわ」と、自分をきつく締め付ける葉の口もとにそっとささやく。
「…起きてたんか?」
「あんたに起こされたの」
いつもなら、最初の一言で腕の力を緩める葉。けれどなぜか、今日は一向にその力を抜かない。――どうしたのよ。何があんたを苦しめてるの。ねぇ…。
「ああ、ダメだ」
突拍子もなく、葉が言った。「ダメだ、やっぱ」
――何が? そう聞いてやりたいのはやまやまだが、あえてアンナは黙ったままでいた。
「オイラ、やっぱアンナにゃ泡になってほしくねぇ」
「…そう」
「それじゃ、ダメだ」
「へえ」
「全然、ダメなんだ」
――そろそろ、聞いてもいいかしら? 放っておくと、いつまでもだめだだめだを繰り返すだけで、話が進みそうにない。腕の力はますます強くなるし、締めつけられ、苦しいばかりだ。
アンナは、乱れそうになる息をなんとか整えようとして、ゆっくりと言った。
「何で…だめ、なの?」
「――オイラは、アンナが泡になったって、守ってやる。ずっと放さないで、抱きしめてる。それでいいと思った」
また、腕に力がこもる。息苦しくて、胸が押しつぶされそうで、少し泣きたくなった。葉の言葉に。 ――泡になっても、幸せそうに聞こえるわ、あたし。
「でも、それじゃダメだ」
葉が、アンナの肩に顔をうずめ、くぐもった声で言った。
「それじゃ、アンナが楽じゃねぇ…」
オイラがアンナを放さないのは、ただの自己満足だ。アンナに自由が無くて、「苦しい」とも「イヤだ」とも文句を言えずに腕の中に収まってるなら、オイラの腕はただの独房の、黒い鉄の柵でしかない。そんなの、ちっとも楽じゃねぇ…。
「…だから、ダメだ」
「――今、もし、あんたがあたしの体を自由にしてくれたら」
この腕を放して、あたしを独房から解放したら。「あたしは、また自分から入りに行くわ」
アンナは、葉の耳元で囁いた。
「結局は、同じ事よ」
「――違う」
葉は少し体を離し、アンナの顔を見て言った。「アンナが進んで抱かれるのと、オイラが無理やり抱くのじゃ全然違う」
「だから、あたしが結局はあんたと同じ事を望むのだからあんたの言う“無理やり”にはならないと言っているのよ」
「それでも違うんだ」
「何がよ」
「分からんが、違う」
「強情ね」
2人はしばらく黙った。時計の秒針だけが、カチカチと音を立てる。
「――オイラたち、何の話してたんだっけ?」カチ、カチと音は続く。
「忘れたわ」
カチ…カチ。
「あたしはね」アンナが静かに口を開いた。「別に、泡になるのが恐かったわけではないわ」
「…そうか」
「何げなく言ったあたしのひとことがあんたを縛り付けたなら、それこそあたしの言葉は手錠か何かね」
アンナはそう言って、軽く笑った。
「あたしはね、行き着く先が泡だとか死だとか、そんなことはどうでもよかったのよ」
ただ、あんたに見つけて欲しかった。他の何者かの策略にもだまされず、他の何にも目を奪われず、ただ、あたしを抱きしめて、キスして欲しかったのよ。
「あんたはそうしてくれたし? あたしは泡でも何でも、あんたがそうしてくれるんなら、結局は何だって同じよ」
「そうか?」
「そうよ」
まだ納得しないような葉を見て、アンナは笑った。別に、何もかもを共有しなくてもいい。お互いの気持ちをかせにしあうより、あたしがあんたの腕(かいな)の独房に入るほうがすっきりする。
あんたがあたしの楽を望んでくれるなら、この腕を放さないで。そうしたら、あたしの心は、人魚にも負けない速さで青いキャンパスを泳ぎ出すから――。
葉は一晩中アンナを抱きしめたまま、身体じゅうにキスの雨を降らせた。
「これくらいキスしときゃ、泡になるもんもならねぇか」
冗談めかしてそう言う葉に、アンナは軽く笑い声を上げた。
――朝の光が、ほのかにふたりを照らし始めていた。
懺悔。
言っちゃえば一晩中ヤリ続けた夫婦の話なんですが、そこはおいといて。
人魚姫のパロディを書こうとしたのですが、この話は意外に切ないお話だったので、仮定に止めました。
前半はちょっと純粋なところに立ち返ろうとしたのですがやはり無理だったらしく(え)、
後半では結局いつも通り夫婦一緒に寝てますね。
関係ないですが、アリエル大好きです。